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2010/02/11 21:46:40|IU投稿図書館 
万葉集を楽しむ(3)
万葉集を楽しむ(3)
伝説歌人、高橋虫麻呂が詠う古代美人の悲しい宿命

 二人の男性から求婚される女性。女性冥利に尽きると言いますか、女性としてこの世に生を受けてこれほど嬉しいというのか晴れがましいというのか、男の私には女性心理はうまく表現できませんが、わかるような気もします。現代なら、「ヤッタァー!」、「超ウレシイ!」でしょうか、それとも「困っちゃうなぁー」でしょうか。万葉集にもこのようなお話があります。しかも当時既に伝説として伝えられていたようです。

 勝鹿の真間娘子(ままのおとめ)を詠む歌一首 短歌を并(あは)せたり
(1)鶏(とり)が鳴く 東(あづま)の国に いにしへに ありけることと 今までに 絶えず言い来る
(2)葛飾の 真間の手児奈(てごな)が 麻衣(あさぎぬ)に 青衿(あおくび)着(つ)け 直(ひた)さ麻(を)を 裳には織り着て 髪だにも 掻きはけづらず 履(くつ)をだに はかず行けども 錦綾(にしきあや)の 中につつめる 斎児(いはひご)も 妹にしかめや
(3)望月の 満(た)れる面(おも)わに 花のごと 笑みて立てれば 夏虫の 火に入るがごと 港入(みなといり)に 船漕ぐごとく 行きかぐれ 人の言ふ時
(4)いくばくも 生けらじものを 何すとか 身をたな知りて 波の音(と)の 騒ぐ港の 奥津城(おくつき)に 妹が臥(こや)せる 遠き代に ありけることを 昨日しも 見けむがごとも 思ほゆるかも(9-1807)
 反歌
葛飾の真間の井を見れば 立ち平(なら)し水汲ましけむ手児奈し思ほゆ(9-1808)

(長歌、訳)(1)東の国に昔あった話として、今まで絶えず語り伝えて来た
(2)葛飾の真間の手児奈が、麻の着物に青いえりをつけ、まじりけのない麻を裳に織って着て、髪さえも櫛けずらず、はき物をさえはかずに歩くが、錦や綾につつまれた箱入娘も、この手児奈にどうして及ぼうか。
(3)満月のようにふくよかな顔だちで、花のようにほほえんで立っていると、夏の虫が火にはいるように、港にはいろうと船を漕ぐように、寄り集まって人々があれこれと言い騒ぐ時に、
(4)どれほども生きていられないものを、どうしてであろうか、わが身を思い知って波の音の騒がしい港の墓に、手児奈は横たわっているという。遠い昔の世にあったことをほんの昨日見たように思われることよ。
(反歌、訳)葛飾の真間の井を見ると、いつもここに立って水を汲んだという手児奈のことが偲ばれることよ。
                     (「古典講座」配布資料から引用)

 いきなり長歌を引用しましたが、ここまでで「もう疲れた」とおっしゃる方がみえるかと思いますが、私自身もそうでした、いや今もそうです。
 何故でしょうか。あたりまえですが長歌は長い。その上、枕詞や序詞更には修飾語がやたら出て来て、これがまた難しくてさっぱりわからない。がまんして読み進むのですが、言葉(単語)がわからない上にストーリーの前後もぐちゃぐちゃになって、結局「やーめた」ということになってしまいます。
(1)から(4)に段落分けをして引用させていただきましたが、これは「講座」の菊池善裕先生のお話をうかがって、あわてて印をつけたものです。多くの万葉集の本では段落分けがされていないので、初心者には長歌は手が届かない「高嶺の花」になってしまっています。でも、段落分けをしていただくと、
(1)作者の伝説への関心
(2)真間の娘子がどんな女性か、どんなに美しい女性かという紹介
(3)男たちが、皆、手児奈に求婚したという内容の紹介
(4)手児奈の墓を見て手児奈の自死を憐れみ偲ぶクライマックス
という流れを理解でき、古語(単語)がわからなくても伝説の世界に入っていくことができ、高橋虫麻呂と一緒に感動できたという気になりませんか。

 手児奈は、いつも麻の着物を着て麻で織った裳(古代女性のスカート)をつけ、髪の手入れをする暇もなく裸足で水汲みをして働いている。金糸銀糸で織った絹織物で身を飾った深窓のお嬢さんよりも美しく魅力ある手児奈に地元の男たちは皆魅せられて結婚を申し込む。優しく素直で働き者の手児奈は、何人かの男から一人の男を選んで結ばれるということを思うことさえできず、港へ身を投げて死を選んでしまいました。麻といえば白、裳も白、上下白の服に衿の青が私たちの目に浮かび、虫麻呂は書いていませんがおそらく紅色の健康的なほっぺ。井戸があり、さらに背景には午後の港が見えて、大漁旗をはためかせながら漁から帰ってくる船が所狭しと集まっている。虫麻呂が今の世に生きていたら、モネ、ルノワールと並び称される大画家になっていたと思うのは私だけでしょうか。

 高橋虫麻呂という人はどういう人でしょうか。私も最近まで知りませんでした。藤原宇合(うまかい:鎌足の孫、不比等の子で、式家の祖)が、732年(天平4年)に西海道の節度使(軍事を司る長)に任命された時に送別の歌を贈っていることから、宇合の庇護を受ける立場だったのではないかと言われています(北山茂夫『萬葉集とその世紀』【中】)。また、718年(養老2年)に宇合が常陸国守に任命されていることから、虫麻呂は宇合の属官となって常陸の国に赴任し、そこで東国の民族、伝承に人にまさる深い関心を寄せて見聞を広めたのではないかと言われています(佐々木信綱先生のお考えを、上記『萬葉集とその世紀』【中】から孫引きしました。ごめんなさい)。虫麻呂には筑波山を詠った歌(9-1753,1754。9-1758,1759)や富士山を詠った歌(3-319,320,321)もあり、筑波山で男女が歌を通して愛を交わす嬥歌(かがひ)の歌(9-1759,1760)もあり、東国(鄙)の生活をエンジョイいたのではないでしょうか。「常陸国風土記」の執筆にも関与していたのではないかとも言われています。

 真間の手児奈のお話しについては、千葉県市川市の手児奈堂に手児奈のお墓があり、さらに亀井院というお寺には真間の井と真間井の碑が建てられているとのことです。お近くの方は、散歩のついでに足を延ばされては如何ですか。私は残念ながら行ったことはないのですが、機会があったら是非訪ねてみたいと思っています。

 虫麻呂には、もうひとつ同じテーマの歌があります。長いですが付き合って下さい。

菟原処女(うなひおとめ)の墓を見し歌一首 短歌を并(あは)せたり
葦屋(あしのや)の 菟原処女の 八歳(やとせ)子の 片生ひの時ゆ 子放(おはな)りに 髪たくまでに 並び居る 家にも見えず 虚木綿(うつゆふ)の 隠(こも)りて居れば 見てしかと いぶせむ時の 垣ほなす 人のとふ時 千沼壮士(ちぬまをとこ)  菟原壮士の 伏せ屋焚き すすし競ひ 相よばひ しける時には 焼大刀(やきたち)の 手かみ押しねり 白真弓 靫(ゆき)取り負ひて 水に入り 火にも入らむと 立ち向かひ 競ひし時に 我妹子(わぎもこ)が 母に語らく 倭文(しつ)たまき 賤しき我が故 ますらをの 争ふ見れば 生けりとも 逢ふべくあれや ししくしろ 黄泉に待たむと 隠(こも)り沼(ぬ)の 下延(したば)へ置きて うち嘆き 妹が去ぬれば 千沼壮士 その夜夢に見 取り続き 追ひ行きければ 後れたる 菟原壮士い 天仰ぎ 叫びおらび 足ずりし きかみたけびて もろこ男に 負けてはあらじと かけ佩きの 小大刀取り佩き ところづら 尋め行きければ 親族(うがら)どち い行き集ひ 永き代に 標(しるし)にせむと 遠き代に 語り継がむと 処女墓(おとめはか) 中に造り置き 壮士墓(おとこはか) このもかのもに 造り置ける 故縁(ゆえよし)聞きて 知らねども 新喪(にいも)のごとも 音(ね)泣きつるかも
(9-1809)
(訳)
葦屋の菟原処女が、八歳のまだ幼い時から、おはり髪に束ね結い上げる年頃まで、並んでいる隣の家にも見えないで、籠りきりなので、見たいものだといらいらして垣のように取り囲んで求婚した時、千沼壮士と菟原壮士が進み気負って互いに争い、共に求婚したその時には、焼き鍛えた大刀の柄を握ってのし歩き、白木の弓と靫を背負って、水に入り、火にも入ろうと立ち向かい争った時、この処女が母に語ることに「卑しい私ゆえに、ますらおが争うのを見ると、生きていたとて結婚できるとは思えません、黄泉でお待ちしよう」と、心ひそかに思い、嘆き悲しみ、処女が死んでしまったので、千沼壮士はその夜夢に見て、後に続いて追って行ったので、あとに残された菟原壮士は天を仰ぎ、叫びわめき、地を蹴り、歯噛みをして猛り狂い、あの男めに負けてはいられないと、肩から懸けて吊り下げる小剣を佩き、跡を辿り求めて行ったので、親族の者たちが寄り集まり、永久に記念にしようと、遠い未来まで語り継ごうと、処女墓を中に造り置いて、壮士墓を、その両側に造って置いたその由来を聞いて、よくは分からないけれども、新しい喪のように声をあげて泣いてしまったなあ。
反歌
葦屋の菟原処女の奥つ城(き)を行き来(く)と見れば音(ね)のみし泣かむ(9-1810)
(訳)葦屋の菟原処女の墓所を行き来のたびに見ると、声を出して泣けてくる。
墓の上の木の枝なびけり聞きしごと千沼壮士にし依りにけらしも(9-1811)
(訳)墓の上の木の枝が靡いている。かねて聞いていたように、菟原処女は千沼壮士の方に心が寄っていたのだろう。
                    (『萬葉集二』新日本古典文学大系)
 
 菟原壮士と千沼壮士との激しいバトルの様子は圧巻ですね。でもそのバトルの最中に菟原処女が「私のためなら戦いを止めて!見ていられない」と言って、真間の手児奈と同じように、自ら死を選んでしまいます。なんて悲しいお話ではないでしょうか。万葉集には巻16に桜子(さくらこ)・蘰子(かずらこ)伝説があり、桜子は二人の男から、蘰子は三人の男から求婚されて、やはり自ら死を選んでいます。ハッピーエンドのお話ならばその時だけで終わってしまって、後の時代に伝説とまでなって伝わるほどのインパクトがないのかも知れません。しかし、何も死ななくても、と思ってしまいますね。悲劇だからこそ、長く人の記憶に残るのですね。


 ところで「男を手玉に取る女」という言葉がありますが、古代にはこういった女はいなかったのでしょうか。いやいや我らが虫麻呂は、この手の話もちゃんと用意しています。

 上総(かみつふさ)の末(すえ)の珠名(たまな)娘子を詠みし一首 短歌を并(あは)せたり
しなが鳥 安房に継ぎたる 梓弓 末の珠名は 胸別(むなわけ)の 広き我妹子 腰細の すがる娘子の その姿(かほ)の きらきらしきに 花の如 笑みて立てれば 玉桙の 道行く人は 己が行く 道は行かずて 呼ばなくに 門(かど)に至りぬ さし並ぶ 隣の君は あらかじめ 己妻離(か)れて 乞はなくに 鍵さえ奉(まつ)る 人皆の かく迷へれば かほよきに 寄りてそ妹は たはれてありける(9-1738)
 反歌
金門(かなと)にし人の来立てば夜中にも身はたな知らず出でてそあひける (9-1739)

 (長歌、訳)安房に地続きの周淮(すえ)郡の珠名は、胸幅の広い乙女、腰の細い、すがる蜂のような乙女で、その容姿の端麗である上に、花のようににっこり笑って立っていると、道を行く人は自分の通るべき道は行かないで、呼びもしないのに、彼女の門に至ってしまう。隣家の主は、前もって自分の妻を離別して、求めもしないのに、鍵までも渡す。皆々がこのように心惑っているので、その中の最も姿の良い男に寄り添って、娘子は遊びたわけている。
 (反歌、訳)門口に男が来て立つと、夜中でも我が身のことなど顧みず出て逢った。
(『萬葉集二』新日本古典文学大系)

 「胸別の 広き我妹子 腰細の すがる娘子」は、現在で言えば「ボイン、ボイン」のグラマラスな女で、その女が道で「にこっ」とほほ笑めば、男はみんな道を間違えてフラフラしてしまいます。隣家の主人のように早々と奥さんと離婚するというのはどうかと思いますが。古代にもこのような女もいたのですね。やはり古今東西いろいろな男女がいたのでしょう。

 男と女の物語といえば『源氏物語』ですが、その『源氏物語』にも虫麻呂の世界に近いお話があります。宇冶十帖の「浮舟」の巻で、ヒロイン浮舟が薫(光源氏の子、実は柏木の子)と匂宮の二人の貴人から求婚され、二人が明日にでもそれぞれ自分の屋敷に入れるため迎えに来るという時に、浮舟はただおろおろするばかりです。その時、右近という女房が浮舟と侍従という同僚に向かってこう言う場面があります。
 「私の姉が、常陸の国で二人の男を持っていましたが、身分の高下にかかわらず、こういうことがあるものですね。二人がどちらも負けず劣らず尽すものですから、姉は迷っていますうちに、新しい男に心が少し傾くようになりました。前の男がそれを妬んで、とうとう後の男を殺してしまったのです。そしてその男も、姉の所に通って来なくなりました」(円地文子『源氏物語』巻十)。殺人を犯した男は国を追い出され、右近の姉は国守の館を追い出されたと話した後で、続けて「どちらかお一方にご決心なさいまし。宮様も御愛情が殿に優って、真剣に仰せられるなら、そちらの方へお定めなさいまして、あまりひどくお苦しみなさいますな。痩せ衰えたりなさるのはほんとうにつまりません」(円地文子『源氏物語』巻十)。この発言は、宮仕えの気楽さなのか、それとも当時(9−10世紀の平安朝)の世の中ではよくあったことなのか、ウーンと唸っていたら大野晋先生が丸谷才一さんとの対談で、こう言っておられます。
 「考えてみると、当時の女の人たちが大臣家の人間、光源氏の子供のような人と関係があったところへ、また皇子との関係が生じたというように、二人の男に関係を生じたという女性は往々いたと思いますが、その時は、早くどっちかに決めて逃げて隠れるのが当時の普通のことだったでしょう。どっちかへ隠してもらえば、それで女としては『幸い人』になれるわけです。
 それなのに、その幸い人になるという道を浮舟は選ばなかった。そうではなくて、自分のやっていることは『けしからぬことである』『あるまじきことである』という意識によって行動を決定した。ここのところに、作者である紫式部の世界観、あるいは人間観、モラルがある」(大野晋、丸谷才一『光源氏の物語』【下】)
 我がヒロイン浮舟は、「なんとしてでも死んでしまいたい。これほどまでに並み外れた嘆かわしい身の上がまたとあろうか。こんな苦労をする例は、身分の低い者の中にでも多くはあるまいに」(円地文子『源氏物語』巻十)といって、浮舟のとった行動は宇冶川に身を投げたのです。このあと浮舟がどうなったかは、『源氏物語』をお読みください。
 私はこれまで浮舟はどちらかというと「珠名娘子」に近い女性かと思っていましたが、今回よく読んでみると「真間の手児奈」や「菟原処女」と同じ考えを持つ女性だったのだと思えます。『万葉集』も当然読んだ上で『源氏物語』を書き、その中で自分の人生観を表現できている紫式部の凄さに、改めて感心しました。

 最後に、大変きれいな絵画になるのではないかと思われる歌を紹介して終りにします。
 河内の大橋を独り去く娘子を見し歌一首 短歌を并せたり
しなてる 片足羽川の さ丹塗りの 大橋の上ゆ 紅の 赤裳裾引き 山藍もち 摺れる衣着て ただひとり い渡らす児は 若草の 夫かあるらむ 橿の実の ひとりか寝らむ 問はまくの 欲しき我妹が 家の知らなく(9-1742)
 反歌
大橋の頭(つめ)に家あらばま悲しくひとり行く児に宿貸さましを(9-1743)

 (長歌、訳)片足羽川の赤く塗った大橋の上を、紅染めの赤い裳裾を引き、山藍で摺り染めにした衣を着て、ただひとり渡って行かれるあの乙女は、夫があるのだろうか、それともひとりで寝ているのだろうか、問いかけてみたいあの乙女子の家も分からないことよ。
 (反歌、訳)大橋の橋のたもとに家があったら、悲しそうにひとり行く少女に宿を貸そうものを。
(『萬葉集二』新日本古典文学大系)

 虫麻呂には、現在に生まれ返ってこの歌の光景を是非絵に描いてほしいと思うのです。
できれば、初夏の明るい太陽で、印象派風な絵を描いてもらえば、絵画は高くて買えませ
んが展覧会には必ず行って、そして図録を買っていつも見ていたいと思います。

 今回も、最後までお付き合いくださり、ありがとうございます。 感謝。





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